2009年4月 |
人生や仕事には、当然、いくつもの挫折や失敗がある。 …… そもそも人生にも仕事にもいろいろの隙間があって、 その隙間を放っておくと自分が穴だらけになるのは当たり前である。 だが逆に、この隙間を早めにとらえてそこに身を挺すれば、 意外にも事態が転換したり、開展したりすることがある。 そこにはブーツストラッピングのタイミングがあるはずなのだ。
(「有名人」が「無名人」であったころのことを綴ったものは) 誰だって無名時代があるのだから、 その当人がすでに有名になっている時点で"苦労話"を振り返ってもらっても、 どこか「出し遅れの証文」のように思うかもしれないが、実はそうではない。 無名時代には意外にも多くのヒントが詰まっている。
(野球の場合)それでもスポーツにはまだ規定路線というものがある。 いつだってゲーム・ルールは同じだし、成果は試合にしかあらわせない。 ……
それが自由業となるとそうはいかない。 どこでも、何歳でも、好きにデビューできるかわりに、 どのゲームをしていくかをしょっちゅう考え、オプションを選択していかなければならない。 こういうときは、職業の選択ではコトは決まらない。 自分がかかわった仕事の現場で何を吸収しつくし、何を削るかを決めなければいけない。
まったく好き勝手なことをやって成功したと見えるプロたちも、 そこには意外な補償活動というものが生きているものである。 補償でわかりにくいなら、補完と言ったらいいだろう。
今日の日本社会や企業社会は、さまざまな要因によってではあるけれど、 仕事というものが本来もつべきフラジャイルな環境をそうとうに悪くしてしまっている。 …… 結局は日本社会の全体が寄せも返しもならない自己防衛にかたまった。 ここから「薮から棒」なんて出てこない。
ごくごく少ない例をあげたにすぎないが、無名時代には、 人生や仕事にとってのきわめて重要で、 ゆめゆめ忘れてはならない試行錯誤の本質がこっそり隠れているものなのである。 そうであるのなら、諸君は、いま、そのとき、 その場においての試行錯誤をもっと適確に感じるべきだ。
作品を見たいとか、文章を見せなさいと言われることはしばしばおこる。 これには誰もが応ずるだろう。 見せてみると、近くで仕事をしてみないかと言われそのまま転がりこむというのは、 しょっちゅうあることではないが、それでも十に一つくらいはあるだろう。 それでそうしてみると、なんだか騙されたような気がしてくる。 自分が大事に扱われているようには思えない。 それに仕事とはいっても、いろいろ上下関係のあるスタッフの中に放りこまれたとしか思えない。 だからだんだん自分が評価されていないような気がしてきてしまう。 これはよくあることなのだ。けれども、 実はこの何もおこっていなさそうな状態こそ必要なことだった。
妹尾河童の場合は、3年目のある日、親分から 「君、『トスカ』の舞台装置をやってみないか」と突然に言われた。 …… さあ、ここでどうするか。
3年目というのは、何かにつけてのひとつの目安だ。 ……(新しいスタッフが)どのくらいの力をもっているかということだけなら、 上から見ていればすぐに見当がつく。 問題はそんな持ち前の才能のことではなくて、この者はいったい何によって飛躍するのか、 そこを観察しているのが上司というものなのだ。
それゆえこの3年は、石の上にも3年ということではなくて、 誰にとっても飛躍のチャンスというのは3年分の時間の中の一瞬や二瞬で、 その一瞬や二瞬にこの者が全力を傾注できるチャンスがやってくるのは、 だいたい3年くらいの互いの暗然たる状態が必要だということなのである。 それ以前でギブアップして3年ももたないとしたら、 まことにもって論外のこと、これは話にもならない。
話を河童さんに戻すけれど、彼はそれまで舞台美術なんて一度もやったことがない。 ……それでじくじくしていると、 藤原義江は怒って「チャンスってものはな、薮から棒なんだ」と言った。 …… 世の中、こういうものなのだ。 この「薮から棒」の棒に、自分の身を刺されないかぎり、 誰しも才能など開花しっこないと思うべきである。
ただそれだけの仕事だが、それを続けているとパッとアタマの中が空っぽになる。 そうすると、その空いたアタマの中に、あとから何かがどんどこ入ってきてくれるのだ。 この「アタマの空き地」をつくっておくことが、 ときにつまらない仕事によってこそ補償されるのである。
行き詰まったままの日がつづいた。
そこで鈴木志郎康の詩の教室に通うことにした。 東中野の教室へ、せっせせっせと通った。 早く行くと先生に作品を論じてもらえるので、始まるより30分前に行き、 詩のコピーを先生の机の上に置いておいた。 帰りも商売用のライトバンで送るようにした。 自宅まで押しかけて、先生が食事を終えるのを居間で待ち、またまた批評をうけるのだ。 ときには書き直して待って、さらに添削をもらった。こうして1年、 やっと『ヤマサ醤油』が出来上がった。
それでも荒川さんは来る仕事は断らない。 とくに何かの機会にエッセイを書くことになったときは、 この「一回きり」に全力を注ぐことにした。エッセイは詩ではない。詩人の仕事ではない。 しかし、これが自分の生命線だと思うことが、荒川さんの言葉を体の奥から陶冶していった。 詩とエッセイのどこかに秘密の電話回線がつながっていたのである。
装幀家としてユニークな仕事をしつづけている菊地信義は、 ある日、長年勤めてきた広告制作の仕事を捨てた。 ある日というのは、夫婦の諍いで、「そうか、夕飯の総菜を買ってくればいいんだな」 と言い捨てて外へ出たときだ。 このとき急に「二河白道」(にかびゃくどう)という言葉がよぎったそうである。
こうして目算もなく、装幀の仕事だけをしようと決意して会社をやめた。 デザインという表情が真に求められるのはそこだと思ったからだ。 もちろんわずかな蓄えはすぐに底をついたけれど、菊地さんは「落とし前」をつけるためには、 この仕事に徹する以外にないと決めた。 自分が負いこんだ「負」を、自分がつける「落とし前」だと観念したこと、 これが菊地さんのブーツストラッピングだったわけである。
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