2008年5月 |
umass0: PINGTEC Flash Disk, rev 2.00/1.00, addr 2 da0 at umass-sim0 bus 0 target 0 lun 0 da0: <PINGTEC Flash Disk 5.00> Removable Direct Access SCSI-2 device da0: 40.000MB/s transfers da0: 497MB (1019392 512 byte sectors: 64H 32S/T 497C) tpr60# mount -t msdos /dev/da0s1 /mnt lstpr60# ls /mnt tpr60# df Filesystem 1K-blocks Used Avail Capacity Mounted on /dev/da0s1 509424 16 509408 0% /mntううむ、 512MB というラベルに偽りはなかった…… (何かの間違いかなとちょっと期待してた)。まあ、おまけだからな。
中世までの世界では、「質」がさまざまな部分に染み出していた。
……
けれども、魔術が科学におきかえられてしまってからは(錬金術が化学になって以降は)、 「量」と「質」とはまるで敵対関係のようになった。 かつてマックス・ウェーバーはその歴史的光景を「世界の魔法が解けていく」と描写した。
……
バーマンは、この魔術から科学への変容によって「ミメーシス」という世界観も がたがたと解体していったことを強調していて
……
ミメーシスとは何かというと、語り手に聞き手が身を寄せるということである。 すべての知識を、身体的に、演劇的に、感応的に解釈するということである。
……
このミメーシスを取り戻すことをバーマンは考えつづけた。 そして最終的にはグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』(446夜) に行きついたのであるが、そこへ行くまでが苦労の連続だった。 なぜなら、そこには“いわゆるオカルト学”が手を替え品を変えて待ち伏せしていたからだ。 グノーシス、ヘルメス学、拡張アグリッパ、延長パラケルスス、ボヘミア主義、 近代カバラ、シュタイナー(33夜)、ライヒ、カスタネダ(420夜)‥‥。
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というわけで、バーマンは一挙に「デカルトからベイトソンヘ」というふうに 転換したわけではなかったのだが、 そしておそらくはニューエイジ・サイエンスをあらかた渉猟したのだろうが、 いったんベイトソンの視点に辿り着いてからは、 今度はその視点や思想によって「世界は新たな再魔術化が可能ではないか」 というふうな論旨に進んでいった。
……
(この「再魔術化」という用語は) 「新たに魅了する」ということが主題になっていると見たほうがいい。 フランス語では「アンシャンテ!」(enchant)といえば、 「うん、すっかり気にいった」と意味になるけれど、だいたいはそれに近くて、 体ごと気にいった世界観をどのようにつくるかというのが、 バーマンの言いたかったことなのである。 それをベイトソンに学ぼうというのだ。
……
ところでバーマンは、現代の社会がこのようなベイトソン的世界観をもつためには、 その他の役に立ちそうないくつかの応援隊も繰り出している。
その一つは、マイケル・ポランニー(1042夜)の「暗黙知」への着目だ。
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二つ目は、レヴィ=ストロース(317夜)が重視した「野生の思考」のようなものを、 現代人だってその見方と感情を含めてもつべきだろうということだ。
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三つ目の応援隊には、いろいろのヒントの提供者がまじっている。 たとえばウィリアム・ライヒのオルゴン・エネルギー説であり、 ジュリアン・ジェインズのバイキャメルラル・マインド論である。 あるいはロバート・ブライのグレートマザー感覚の重視や 仏教的な因果律の大切さといったものだ。
こうしてバーマンが最後に提案するのは、ちょっと意外かもしれないが、 「意識の政治」の確立というものなのだった。
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むしろぼくとしては、それを「意識の政治」と名付けたいのなら、 安全や安心をばらまくのが政治なのではなく、 不安の解消を「新たな意味の誕生」によって充当したほうがいい、と言いたいところだ。
しかし、私が気になるのは、週末婚が夫婦のそれぞれがアクティヴな社会的活動に従事しており、 高額の家賃を負担しても十分に単身で生活できる経済力を有しているという条件は かなり不安定なものではないかということである。と、前振りがある。その後、
例えば、週末婚配偶者の一方が病気になったり、失職した場合に、 他方の配偶者はこれにどう対応するのであろう。
……
週末婚は「強者カップル」においては可能だが、 一方の配偶者が弱者になれば破綻の危機に瀕するということである。
……
実情は「弱者の切り捨て」ということである。
昔、あるインディペンデントな夫婦を知っていた。 夫婦それぞれ仕事を持ち、相当な年収を得て、お互いを束縛せずに、 異性関係を含めてかなり自由に活動していた。 そういうのもありなのかしらと私は眺めていた。 その妻があるとき病気になった。 脳内出血で意識を失ったのである。 しばらく植物人間状態が続いたあと、夫は妻を実家に送り返した。 荷物みたいに。という話が来る。そこで「親族」というものについて、
私たちは必ず年老い、病み、仕事を失い、心身の機能が低下する。 親族はそのようなときのための「安全保障」の装置である。 だから、私たちは自分の親族のうちに、 幼児や老人や病人や障害者をフルメンバーとして受け容れている。 私たちはかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人や障害者になる。 そのときの「弱い私」をフルメンバーとして敬意を以て接してくれるような 共同体を構築するために、「強い」ときに、 持てるリソースの相当部分を彼らのために割くのである。と来る。ここまでフムフムと読んでいたのだけど、最後の締めが、
結婚の誓言は「富めるときも貧しきときも、 健やかなるときも病めるときも」という条件を課している。 現に、富めるときや健やかなるときに私たちは親族を必要としない。 いくらでも友だちがおり、取り巻きがおり、どこでも歓迎されるからだ。 しかし、貧しいとき、病めるときには、かつての知友は知らない顔をして通り過ぎてゆき、 どこの家のドアも開かない。 親族はそのようなrainy day のためのものである。 貧しいとき、病めるときでも、親族は見捨てない。
そのことを知っていたからこそ、 さきほど例に挙げた夫は昏睡状態の妻をその「親族」に送り返したのである。と。この一文で突然、樹さんが何を言いたいのかよく分からなくなってしまった。 この夫は、弱者を切り捨てた人間なのか、それとも 強いときに自分の持てるリソースを割いて親族を構築していた人間なのか。 もちろん、ここには書かれていないことが沢山あって、 後者であるという可能性もあるんだろうが。
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