2008年11月 |
野依氏は……と笑いを誘った。とか、どんな意味があるんだろうか。
山形浩生さんが少し前にノーベル賞について、「…… 日本でも、何かノーベル賞に比肩するような世界的な賞を作ってみてはどうだろうか?(・・・) もちろん・・・おそらく無理だろう。 日本ではそんな賞はすべて地位と経歴と学閥内の力関係で決まり、 下馬評は事前にだだ漏れとなり、受賞目当てのロビイングが横行し、 結果としてだれも見向きもしないつまらない賞になりはてるだろう。 それが日本の問題なのだ。」(「論点」、毎日新聞、10月31日)
私たちの社会のたいへん深刻な問題のひとつは「人を見る目」を 私たちが失ってしまったということである。
「人を見る目」というのは、その人が「これまでにしたこと」に基づいて 下される評価の精密さのことではなく、 その人が「これからするかもしれない仕事」についての評価の蓋然性のことだからである。
「この人はもっさりしているが、いつか大きな仕事をするに違いない」 「この人はずいぶん羽振りのいい様子をしているが、そのうちに大失敗するに違いない」 「この人はずいぶん恭順な様子をしているが、そのうち私の寝首を掻く気でいるのであるな」 などなど、「まだ起きていないこと」についての予測の確かさのことをもって 「人を見る目」と称するのである。
「人を見る目」というのは、突き詰めて言えば、 目の前にいる人の現実の言動を素材にして、 その人の「未来」のある瞬間における言動をありありと想起することである。
別にむずかしいことではない。
それは「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が 「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての 先行事例の膨大な蓄積がこちらにあれば、 数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。
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