2007年11月 |
この人、いまではちょっとした有名ガイジンである。 日本語で詩や絵本やエッセイを書く混血アメリカ人として知られる。
が、有名ガイジンであることは、どうでもいい。 … 東京に来てからでもすでに十数年、日本人よりずっと深々と 日本語の「をかし」と「もどき」を味わっている。
… いまは40歳になっている。
ぼくは「遅ればせ」という言葉が好きで、…
「遅ればせながら、私儀、只今、やはり参上致しました」。 これが大事なのである。準備ができれば、いつだっていい。 いくら遅ればせだっていい。そこに参上するべきなのだ。 「遅ればせ」は「遅れ馳せ」。そこに駆けつけることをいう。
なぜアーサー・ビナードがこういうコラボレーションができたのかといえば、 きっといろいろ理由があっただろうが、やはり心を打った日本語の短歌や俳句や詩を、 納得のいく英語にしたいと思いつづけ、それを試みてきたことが大きかったのではないかと思う。
真髄に迫ろうというのでもない。 その表現の「本来」から、自分を含めた社会の「将来」を見据えている。 そのための翻訳コラボレーションなのである。ここが、たいしたものなのだ。 だから本気のコラボレーションができる。
ということは、安易な妥協をしていないということでもある。
それにつけても宮沢賢治はよいね。 『雨ニモマケズ』の後半はこんなリフレインである。以下の引用には、グラッと来てしまった。
The Gold Standard for Scientific Computingに偽りはないと思うが、そのコードは使いたくない。 その原因のライセンスには、何らかの変更はあったのだろうか? (cf.9/8/2001)
財をなした老妓が、 出入りの電気器具屋の青年に目をかけ生活の保証を与えて好きなことに没頭させたときに、 その青年にどういう変化が起こったかのくだり。というところ、「その青年」の変化ではなくて。 そういうことは実際にあったのかなぁと(私が)思ったこと。
Copyright (C) 1997-2018, Kengo Ichiki
twitter: @ichiki_k |