2008年4月 |
(国家や社会は、そして金融機関やマスコミは) ようするに本気の“修練”や“再生”などはしてほしくない。
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バウマンのコミュニティ論であるが、 その結論は「このままではコミュニティは際限なく衰退していくばかりだろう」 というものになっている。
(そう結論づけたくなる原因は)まず第1に、 「放っておいてほしいんだ」「どこにも属したくないんだ」 と言いたい連中が急激に広まっているということがある。
第2には、このような脱領域的感覚が、 一方では「クール」だともてはやされてしまったことがある。
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ようするに「親密はわずらわしい」「本気は勘弁してほしい」ということである。 かつてなら、これはセーレン・キルケゴールによって厳密に 「絶望に至る病」とよばれていたのだが、いまではこれがクールでカッコいいことになった。
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これでは本気のコミュニティなどできるわけがない。 せいぜいブログやミクシィで疑似コモンズに遊ぶ程度のことだろう。 しかし本当のコミュニティは「本気になるのは勘弁してね」ではなくて、 「勘弁を本気でつないでいくこと」にこそ始まるものなのである。
第3には、そうした感覚がいまや「新たなアイデンティティ」をもたらすという “勘違い”を決定的にもたらしつつあって、 それが社会における流動性をさらに加速させているというふうにもなっているということだ。
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このことは、イギリスのゲイ社会学者ジェフリー・ウィークスが 「コミュニティの物語が本当らしく聞こえないときに、 アイデンティティの物語がやかましくなる」と言っていることや、 犯罪学者のジョック・ヤングが「コミュニティが壊れるとアイデンティティの立証が 社会の表面を覆う」と指摘していることにもあらわれている。
21世紀の現在日本は、かなり多くの信頼と紐帯を「信用の代用品」や 「紐帯の代理品」に任せてしまっている。
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自分自身が選んで参加した「判断力のコミュニティ」や「価値観のコミュニティ」など、 どこを探しても見つからない。
つまりは代理や代用ばかりに頼って、 「縁」や「絆」を実感できない社会になっていけばいくほど、 そこで得られる安心や安全はどんどん薄っぺらなものになっていくだけなのだ。
それならもうそろそろ、「同化」か「衰亡」かという二者択一に、 また「保守」か「排他」かという二者択一に、 さらには「大きな政府」か「小さな政府」かという二者択一に、 踊らされないほうがいい。 それらはすべてデュアル・スタンダードだってかまわなかったのだ。
ウルリッヒ・ベックは、社会システムの矛盾を追い払うには、 「一人一人が伝記的に解決する」ために集まった場を創発的にもつしかないと提案し、 リチャード・ローティはコミュニティに必要なのは「厚みのある記述」だとさえ言ったのだ。 伝記的に、厚みをもって、諸君、諸君が属するコミュニティをもっと痛快にしていきなさい。
『大衆の反逆』は、まず大衆がけっして愚鈍ではないこと、 大衆は上層階層にも下層階層にもいること、その全体は無名であることを指摘する。
オルテガによれば、大衆の特権は「自分を棚にあげて言動に参加できること」にある。
オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。 科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、 このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、 科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。 こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。 それはきっと大衆の言動に近いものになる。
ぼくはオルテガの大衆論を諸手では迎えない。
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たとえば、オルテガがエリートと大衆を分けているのは、もう古い。 古いだけではなく、まちがってもいる。 いまではエリートも大衆に媚びざるをえなくなっているからだ。
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ひとつは、オルテガのように大衆と対決する哲人は、 もう資本主義のさかんな国にはあらわれないんじゃないかという感慨だ。
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もうひとつは、大衆の解体は何によっておこるのだろうかという疑問のような感慨だ。
仕事というのは、得られた賃金に値するようなものを返す行為である。 楽しいから、好きだから、憧れていたから、という動機で仕事をする人間には、 その自覚が欠けていると僕はときどき感じる。自分の満足が優先されがちだからだ。
たとえば、このMLAを書くことで、僕は1年間に約900万円をいただいている。 …… 金額を書いたのは、こういった場合のプレッシャを想像してもらいたいからだ。 このプレッシャこそ、仕事の本質ともいえる。 生半可な気持ちでするわけにはいかない。 1をするために10も100も考える。 成果に対してどんな批判が来るか、すべてシミュレートする。 何が褒められるかも、もちろんすべてわかる。 想定外のことなど起きないくらい計算しなければ、 とても作品を手放すことはできないだろう。 プロフェッショナルというのは、そういうものだと僕は理解している。
(林)あの人が自分の論文を読んでくれたら、天にも昇る気持ちになれる。 若い人がいくら頑張っても、絶対に追いつけない何か隔絶したものを持った学者がいて、 そういう人はいちいち教えないの。
(林)狭い了見にとらわれて、ちまちま教えるだけでは、 例えばA教授の弟子ならその人は小A教授。その下は小小A教授みたいになってしまう。 そんな縮小再生産していくアカデミズムでは、 やがてタクラマカン砂漠に消えゆくホータン河みたいなものですよ。
(林)そうではなくて、最初は盃(さかずき)一杯の水から始まっても、 行く末は大黄河へと連なっていくようなアカデミズム。 そのためには、本物の隔絶した大英知というものを発見し育てていかなければならないんですね。
……中略……
(茂木)もちろん日本のアカデミズムにも変人奇人はいますけど、ちょっと質が違うからな。 あるレベル以上のクオリティの中での「変わり者ごっこ」といいますか、 本当はカモンセンスも持ち合わせているけど、 ある一方向に突出してのめりこんでいるという感じ。
……中略……
(林)イギリスは「リアリズムの国」だと思うんです。 学問でも、リアルな考え方をしないと相手にされない。 だから実証主義というのが大きな力を持っていて、なお面白いことには、 そういう実証主義者たちが寄り集まってさえ実証できないような斬新な仮説を打ち立ててくる。 アカデミズムの世界で、今まで誰も思いつかなかった途轍もない考え方をする人たちは、 実は青バエを食っていた人の末裔だったりするんです(笑い)。
……中略……
(茂木)イギリス人は、相手の肩書きなんか見ないで、人物そのものを見ていると思いませんか。 というか、神経症的なまでに肩書きで人を見るっのて、日本だけかも。
(林)同感ですね。その人がどういう人物で、どういう研究をし、 どういう実力があるかを見定めるまでは、容易に心を許さないところがあります。
……中略……
(林)ですから、昔からイギリス通だったなんてことは全然なくて、 すべて最初に滞在した1年間で吸収したことなんです。そんな僕に、 イギリス留学を控えた若い人たちが「先生の本を読みました」とよく言ってくるけれど、 「そんなものは読まずに行きなさい」と(笑い)。 人の本で読んで、「ああ、これはあそこに書いてあった」なんて追認体験をしたって 仕様がないんだから。
本格派なのである。なんたる手腕、なんたる用意周到。なんたる圧倒力。久々の文学の出現だ。
ちょっと横顔を書いておくと、オルハン・パムクは1952年にイスタンブルに生まれた。 まだ55歳。イスタンブル工科大学で建築を学ぶのだが、 あるとき自分は一生部屋にこもって読書をしつづけたいと思い (まさに白川静の発願意志のようだ)……
パムクには『イスタンブル』という自伝ふうの小品も、 『父のトランク』という、なかなか含蓄のあるノーベル賞講演 (大江健三郎の講演とはずいぶんちがう)や何編かのインタビュー集もあって、 だいたいはどんなことを考え、どんなふうに生きてきたかはわかる。 それで憶測するに、一言でいえば、徹底したプロの作家だと言っていい。 ようするに文学に本気なのである。
まったく現代文学の新しい扉を告げるのには、寸分狂いのない趣味だと見える。 そうなのではあるが、ところがこれを読んできたのがトルコ人のパムクで、 そのパムクがトルコの歴史と現在を描いているということが、いっさいの予想を覆すのだ。
加えてぼくを共感させたのは、『イスタンブル』や『父のトランク』で パムクが「一人が到達する文学は30年から50年はかかります」と言っていること、 そのためには自分自身が「毎日でも“一服の文学”を服用しつつけなければならなのです」 と言っていることだった。この作家、どう見ても只者じゃない。
ちなみに訳者の和久井路子さん(アンカラ在住)が トルコ・イスラムの用語や細密画用語に訳注を入れようとしたところ、 オルハン・パムクは「注をつけるとエスニックとかエキゾチックになってしまうんです」 と言って断ったらしい。これ、エスニックの好きな日本人への見逃せない注告なのである。
If you could take a class/workshop/apprentice from anyone in the world living or dead, who would it be and what would you hope to learn?を考えたとき、誰がいるかなと思った筆頭が松岡さんだったな、と思い出した。 でも(質問にあるような)何かを具体的に教えてほしいとか学びたいというものはないし、 話したいと言っても何も話すこともないな、と思ったり。
人と人のつながりなど、 最初につながりがあると思ったら、 そのままどこまでも進むべきなのだ。は、なかなか実践するのは難しいよな。 以前、かおと色々と深く話した時にも、人に頼るのが下手な私に対して 「一体あなたには今この世の中に一人でも会いたい人って居るの」 と言われたこともある。その時も松岡さんだったことを思い出した。
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