2006年10月 |
優れたプログラムを最後に読んだのはいつのことだったろうか。
最近まで、その質問に対する私の答えは、「そんなことは一度もなかった」だった。 それは恥ずかしいことだった。 優れた飛行機を見たことがない航空技術者や、 美しい橋を見たことがない土木技師など、尊敬には値しない。
プログラムを発表することはよい習慣である。 それを発表するつもりで私が書いたプログラムは、 そのことを念頭においたためによりよいものになった。 聴衆に向かって書いているときには、より明瞭に考え、 誰か聴衆がいるつもりになるとよい仕事ができることが分かった。
多くのコンピュータ科学者は、私自身と同様に臆病である。 われわれが発表するプログラムは、小さな(高度にみがきあげられた) サブルーチン以上のものであることはほとんどない。 Knuth は実用になっているプログラムを発表する点で、ユニークな存在である。 しかも彼は、そうしたプログラムが正しいと信じている。
./configure; make; make installで OK になるんだろうな?
aclocal19 -I /usr/local/share/aclocal libtoolize automake19 -a autoheader259 autoconf259 env AUTOMAKE=automake19\ AUTOCONF=autoconf259\ AUTOHEADER=autoheader259\ CPPFLAGS='-I/usr/local/include'\ CFLAGS='-I/usr/local/include blah blah blah'\ ./configureってなことをやっている。(実のところ、これで正しいのかいな??)
思えばこの 10 年、精神的には一日の休みもなくやって来たわけでと書いているが、ストレスの原因は「頑張り続ける」事ではなくて 「やりたいことが出来ない」事にあるんだな。 当り前のことだけど。 やりたいことのない人間にまでなったらおしまいだ。
いつだってロレンスは極端な自己否定にこそ極端な自己昂揚がありうることを 盲信していたようなのだ。 肉体と精神をひたすらヘトヘトにすることが、ロレンスの唯一の原理であったのだ。
われわれはつねに「ある中止しがたき事情」をもたなければならないということである。
もしそうだとすれば、そういうロレンスこそ ぼくが惚れたピーター・オトゥールのロレンスなのだ。 フラジャイルでありながら、つねに決意の行動を秘めていたロレンスなのだ。
最近は少しマシになった(と思いたい)けど、 もともとは瞬間湯沸かし器のように怒りっぽい人だものな、私は。これらが混然一体となって共鳴している。
netcdf test { dimensions: p = 256 ; vec = 3 ; time = UNLIMITED ; variables: int p(p) ; int vec(vec) ; int time(time) ; double x0(p, vec) ; x0:long_name = "positions of particle center at t0" ; double x(time, p, vec) ; x:long_name = "positions of particle center" ; double U(time, p, vec) ; U:long_name = "translational velocities" ; data: p = 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, ...中略... 248, 249, 250, 251, 252, 253, 254, 255 ; vec = 0, 1, 2 ; ...以下省略... }
… ここぞというところで瑛子さんが逆襲をかけている現場感覚 … 「切羽つまる」という言葉あるが、瑛子さんはその「切羽」にこそ賭けているからだ。
いったいこんなデザインをどのように思いつくのか。 最初は当然ながら脚本を読みこみ、論理的な分析や構築を試みるのだという。 しかしこの段階ではまだヴィジュアライゼーションを発想しない。 瑛子さんはいったん自分を「無」(タブラ・ラサ)にし、 そこから作り手たちの意思と感情の読みに入っていく。 そして思いつくありとあらゆるアイディアを片っ端からスケッチにしていく。 資料も取り寄せる。
それを矯めつ眇めつ検討し、監督や演出家やスタッフと話しこみ、 そこからは今度は一つずつを消していく。 こうしていくつかの候補が絞れたら、 そこに観客たちに向けた血液をどくどくと送りこむ。 ときに沈黙や号泣を考える。 最後に、この作業によって「見えないものが見えるようになったのか」 ということをチェックする。
だいたいはこんな手順だ。 しかし、手順がすぐれた成果を生むなら楽なもの、それだけでは仕事は充実しない。 本書を読めばどのページからも伝わってくるが、 瑛子さんは最後には必ず「熱気」(ゼスト)と切り結ぶことによって、 その仕事を溶鉱炉にしていこうと励む。
いったい何が「未練」で、 何が「断定」すべきことなのかをつねに見極めているところが石岡瑛子なのだ。 もっとわかりやすくいうのなら、 何が「残念」なことで、何が「あっぱれ」なことなのか、 たえず仕事の渦中で鮮明にしているということだ。 そして、このことを必ず表明する。 「それは残念ね」「それはすばらしいわ」というふうに。
どんなところにもギョーカイというものがあって、 真の創造性はどんな場合でもギョーカイとは衝突しながら進むものだ ということも理解できることだろう。
しかし、問題はギョーカイにあるのではない。 仕事を厳密に、かつ大胆に運べるかどうかという、そのことなのである。
なにより感心したのは、 事前にプロジェクターとスクリーンの関係をコンマ1ミリの狂いもなく 合わせるために時間をとったことだった。 それをまことにチャーミングな手さばきでやりとげ、 そして長い黒髪をバラっとかきあげ、「はい、これでオーケーね」と言ったあと、 「さあ、あとは私の問題ね」とニコッと笑ったことだった。
ケイ氏は今の状況に多少失望もしている。人々は科学的思考をするようになるどころか、簡単に情報を与えてくれるネットによって、自分たちの無知に気づけない状況を強めていると見る。
--今の状態で一番足りないのは何か、インフラか。
ケイ:これは私自身もまだ理解しようとしていることだが、大事なことは学ぶことと関係があるだろう。
(Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな、再発明されていることだ。
だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。
私はGoogleの社員に、「エンゲルバートを知っているか」と聞いたことがある。「ええ。マウスを発明した人でしょ」。「彼がしたことは?」「さあ。なんでそんなことを知りたがるんです?」
彼らは何でも見つけることができる会社にいるのに、学ぶ気がまるでなかった。エンゲルバートと打ち込めば最初のエントリーで彼が書いた75の論文を手に入れられる。3つめでデモが見られる。なのに、コンピュータ分野の最重要人物の一人だった人物に関して、彼らはなぜそんなに知りたがらないのか。この関心の無さはポップカルチャーの関心の無さだ。言い換えると彼らは過去のことすべてに関心が持てないのだ。
Webの進みが遅いのは、Webが知る意欲のない大勢の人々によって動かされているためだと思う。彼らにはただ自分たちのアイデアがあって、それが彼らにとって重要なことだ。その考えがいいか悪いかは関係ない。ただ自分たちのアイデアを世界に向かって語り広めたいだけ。
過去1世紀の電子技術のほとんどは退行的だ。というのは電子技術の多くは書くことよりオーラルコミュニケーションを奨励するからだ。昔、人々に読み書きを強いた多くのものは今は存在しない。楽しみのために読まなければ、恐らく必要になったときには読む鍛錬が足りていないだろう。書くこともどんどん不要になっている。将来はもっと、コンピュータが、“学ばないこと”の言い訳になるかもしれない。米国の多くの学校は、子供がGoogleで何かを見つけコピーすると、それで学んでいると思っている。しかし私は、子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならないと主張している。作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めるだけではない。しかしほとんどの学校はその違いを分からない。
だから、理想的未来は人々が今日よりも、よりよく考える未来だが、ありそうな未来は、人々がよりよく考えないでしかもそれに気付かない未来かもしれない。
このように、現実世界には(絶対の)正も誤もない。もし世界中の大人が皆、世界が正誤に分けられないことを理解したら、非常に大きな違いを生むだろう。何百万もの人々が、世界に2つのカテゴリーしかないと考えているために、互いを殺し合っている。科学が原子よりずっと大きな概念だ、とはこういうことだ。何事に対してもどうよく考えるかということだ。
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