2007年1月 |
- 「競争」よりも「寛容」が独創を育む
- 少数派の誇り
- 注: そのとき主流の事をやってるようでは独創的な研究は出来ない、と。
- 多数決の弊害
- 注: 独創的な研究提案が多数決を通るかいな、 科研費とかの決め方が多数決なのは論外だ、とな。
- 不確実性(科学) vs 目標管理(技術)
- 注: 科学側としては、やってみなきゃ分からん事をやるから独創なのであって 事前に研究計画を提出せよとか達成率を報告せよとか愚の骨頂である、とな。 んでも、そこに如何に技術側の効率性を取り入れバランスさせるかが大事だ、 とも言ってたが。
日本ではまるで群衆の旗印のようにその真似が大流行してしまう。
リチーはそこで、日本は少なくとも輸入ファッションについては、 あきらかに「文盲である」と断定した。
海外の文化に文盲であることは、べつだん羞かしいことではない。 それを自分のコンテキストにすれば、それでいい。 …… 日本人がむしろ得意にしていたことだった。そのはずだった。
ところがシャネル・エルメス・グッチは、買えば、そのままなのである。
いったい、どうしてこんなふうになってしまったのか。 きっと理由はいくつもあるだろうが、リチーは、 この奇怪な現象の背後に一つのおぞましい言葉が君臨していることを突き止めた。 「かわいい」という言葉だ。
(リチーは) 日本中のテーマパークがスペイン村やオランダ村といった“外国”になってしまうこと、 パチンコ屋とカラオケ屋がいっこうに廃れないこと、 フィギュアやコスプレが現実の少女よりずっと現実感をもつという 倒錯があいかわらずおこっていること、 週刊誌が深刻なニュースとポルノまがいの“グラビア”を いまなお同時に飾り立てていることなどの特異な現象をあげつらい、 そういうことが流行してきた理由をなんとか探そうとする。
それでどうなったかといえば、これはリチーが名付けた用語だが、 一億総現在主義になった。 どんな残虐な犯罪も、どんなに不幸な災害も、 せいぜい3カ月か7カ月くらいしか話題の座にいられなくなったのだ。 記憶のない日本人になったのだ。そのかわり、何が継続しているかというと、 入れ替わり立ち代わり、「かわいい」の連発で“ものごと”が通りすぎていくだけなのである。
けれどもそんな話すらもはや遠い昔日のこと、 日本中のどこかしこでも茶髪や金髪が流行し、 いつしか、教師が茶髪を申請すれば、 校長はこれを許可するしかないと東京都教育委員会が“認定”するようになっていた。
(客の「かわいいをどう思うか」という質問に答えて)
「何かを見たり、何かに触れて感じたりしたものを、 自分を通して表現することは素晴らしいと思います。 そのような表現をしたくなる場面を、おそらくあなたや多くの女性たちは持っているのです。 かわいいと感じる経験のなかで、自分を磨かれているということです。 それに比べて世の男性はいかがでしょう。自分の心や感情が動かされる体験など、 ほとんどしていません。たまには美術館に行ったり、映画を観たり、 人と共有したくなる体験を少しでもしろと言いたくなります。 『かわいい』、大いに歓迎すべきことではありませんか」
年寄りは口の開いた俵のようだったかな? ちょっと自信がないが、まぁこんな感じ。毛筆で、しかもイラスト入りだったな。 そういう年寄りになりたくは無いものだとそれ以来ことある毎に思っている。 実年齢だけでなく、精神年齢的にも。 (いや、結構自分がその「腰が思いタイプだな」と思ってることもあって。)
腰は重くて、口は軽い
$f(n) = \exp\left(\log (440) + (n-69) \frac{\log (2)}{12}\right)$.
この1年で僕自身の中で変化が起きました。
今の僕は、すべての音楽を、自分なりの「ブルース的」あるいは「フォーク的」な耳で、 「移動ド」で歌っています。
…
以前なら、コード・ネームにしたがって、あるいは機能和声的に、 ここは2度マイナーだ、といったふうに解釈しながら弾いていたのですが、 今は、メロディーと同じように、すべてのハーモニーの音を、 移動ドのドレミで歌うことによって解釈しています。
思想・宗教・イデオロギーにとらわれない日本人の合理的な気質を語る。を思い出した。
確実にあと20年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、 一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がるからである。 そのとき「元・若者」たちが「いまこそ社会改革のときだ」と呼号して、 自分たちに選択的に与えられた既得権益を放棄して、 「貧しい若者たち」とシェアするフェアな社会システムの構築を求めるようになるだろう という見通しに私は与することができないからである。
……
ひとたび「収奪する側」に回ったときに、 「これまで収奪された分の奪還」(つまり個人的な損得勘定の精算)に忙しくて、 社会的フェアネスの実現にはあまり配慮しないものである。
社会的リソースは放っておけば必ず偏る。 それをできるだけうまく「流れる」ような装置をそれぞれがそれぞれの場所で工夫を凝らすこと。 それが「フェアネスへの配慮」ということである。
use strict; use XML::RSS; use encoding 'utf-8'; binmode STDIN, ':encoding(iso-2022-jp)'; my $rss = new XML::RSS (version => '1.0', encoding => 'UTF-8', encode_output => 0);
昨年末からの私の考える 「団塊の世代論」は新聞やTV番組の内容とは全くかけはなれていますから、 お読みになっても「参考」にも「役」にもたたないことをあらかじめ おことわりしておきます。(笑)と謙遜しておられるが、「新聞やTV番組の内容」のひどさに食傷気味の今、 (少なくとも個人的には)どちらが「参考」になり「役」に立つかは自明だ。
snd_hda_load="YES"としてある。 起動時の認識は
pcm0: <Intel 82801G High Definition Audio Controller> mem 0xee240000-0xee243fff irq 17 at device 27.0 on pci0 pcm0: <HDA Codec: Analog Device AD1981HD> pcm0: <HDA Driver Revision: 20061210_0037>vchan の設定が変わったみたいで、 /etc/sysctl.conf の内容を以下のように変更。
dev.pcm.0.vchans=4 hw.snd.maxautovchans=4
# cd /usr/src/sys/dev/usb # diff usbdevs usbdevs.orig 909d908 < product EPSON CX4800 0x0819 Stylus CX4800 MP scanner # diff uscanner.c uscanner.c.orig 219d218 < {{ USB_VENDOR_EPSON, USB_PRODUCT_EPSON_CX4800 }, 0 },を施せば、 uscanner として認識されるようになる。
Jan 6 19:24:38 tpr60 kernel: uscanner0: EPSON USB2.0 MFP(Hi-Speed), rev 2.00/1.00, addr 2しかし、この時 printer (/dev/ulpt0) は見えなくなる。 つまり scanner と printer の同時使用は現状ではダメみたい。 (USB の(scanner 部分の)実装の問題らしい。) 対処方法は、修正した uscanner を module にしておいて (/usr/src/sys/modules/uscanner/ に行って make すると出来る)、 scanner が使いたいときは手で kldload する。 printer が使いたいときはそのまま、あるいは既に uscanner.ko が読み込まれている場合は kldunload する。まぁこれでとりあえず使いものにはなる。
人は追い込まれると悪意なしに他人を犠牲にする事ができる。という怖さを知った。
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